五十而知天命&バリ島往還

半世紀を生きてきた今、無理しない生き方をゆるーく追及中。バリ旅に学ぶところ多し。

読書感想文コンクールは「科学読物の部」ひとすじだった昭和のリケジョ

今週のお題「読書感想文」
読書感想文といえば定番の夏休みの宿題だが、私はむしろ宿題提出後の、読書感想文コンクールへの準備活動のことを思い出す。

読書感想文の提出だけが登校日だったワケ

夏休みの宿題の提出はふつう2学期の始業式の日(9月1日)だと思うが、私の通っていた小学校では、読書感想文だけは8月中の登校日が提出期限だった。何故かというと、そこで集めた感想文の中から、担任が、読書感想文コンクールに出す作品を決めるからだ。

作品を決めるというより、コンクールに挑戦する児童を決めるため、というほうが正確だ。

担任に選ばれると、さっそく学校に呼び出される。といっても、当時は、夏休みになると水泳だのミニバスケットボールだの合唱だの吹奏楽だのの特別チームが編成されて、どの子もひとつかふたつの活動には参加していた。それで毎日どれかの活動があって学校には行っていたので、わざわざ家から呼び出さなくても、該当者は学校に来ていたのだ。2クラスしかない小さい小学校では、そうやって人数をそろえないと、それぞれの分野で支部大会に出場するメンバーが足りなかったのだと思う。いま思えば先生方は大変だったと思うが、昭和50年代の話なので、当時はそれが当たり前だと思っていたし、お盆を除く約30日間、友達と一緒に授業とは違う活動に打ち込める夏休みは、好きだった。

コンクールの出品候補に選抜されると

そういうわけで学校にいると、担任から後で職員室に来てねと呼び出しがあり、水泳の練習が終わってから顔を出す。すると担任から、コンクール出品の候補に選ばれたことが告げられ、文章についてのアドバイスがあり、表現に手を入れたり、場合によっては全体を書き直したりする課題をもらうことになる。

コンクールは、まず学校から支部(いくつかの郡市のまとまり)へ出品し、入賞すると県へ、そこで入賞すれば全国へと作品が送られることになるが、学校としても入賞者を出したかったのだろう、読書感想文コンクールに限らず、先生方はこうした指導にも熱心だった。別に作文が好きではない子にとっては、宿題のやりなおしなど冗談じゃない仕打ちだったかもしれないが、私はどちらかと言えば読書も作文も好きだったので、機嫌よく書き直しに応じていた。

理科系分野の読物に限った部門があったおかげ

低学年のときのことは覚えていないが、4年生以降は、私は毎年コンクール応募対象に選ばれていたと思う。これにはある理由があった。当時の読書感想文コンクールは、学年ごとの部の他に、科学読物の部というのがあったのだ。実を言うと、そういう名前の部門だったかどうかは覚えていないのだが、ともかく、物語の感想文ではなく、理科系分野の読み物の感想文に限った部門だった。

これが、どうにも応募者が少ないらしく、コンクールの後に支部(県だったかも?)から配布される文集を見ても、ページがとても少なかった。つまり、とても競争率が低い。実際、学校でも他に科学読物で感想文をかく児童があまりいないので、毎年のように私が選抜されていたというわけだ。

とはいえ、選抜されたくてそういう本を選んでいたわけではなかった。小さい時から理屈っぽいと言われ、教科の中では理科が一番好きで、学研「ひみつシリーズ」の自然科学分野を好んでねだる、ちょっと変わった女の子だった私は、どちらかというと、科学読物でしか感想文を書けなかったのだ。

むしろ文学で感想文を書くなんてできない!

同じように選抜される友人は、太宰治人間失格」とか、夏目漱石「こころ」などで感想文を書いていたが、なんでそんなことができるのか、不思議だった。私も文学作品を読むのは好きだったし、6年生で好きな作家に北原白秋志賀直哉をあげる渋好みでもあったのだが、感想文は書けなかった。読んでいるときに何かを感じていることは確かなのだが、それぞれの作者の世界観に入り込んでいるので、読了後にそれをわざわざ自分の稚拙な言葉に置き換えるなど、やりたくないし、できない。文学は芸術作品なので、それに解釈を加えるなど陳腐の至り。当時そのように分析していたわけではないが、たぶん、そういうことだったと思う。

しかし自然科学分野の読み物であれば、話は違った。客観的な事実を中心に記述されているので、与えられた新しい知識に対する驚きや、そういうことをひも解いてきた科学の営みへの感動など、自分の気持ちが入り込む余地がいくらでもあった。

もうひとつ科学読物での感想文の良いところは、要約のやりやすさだった。感想を書くには、感想文を読む人のために、その感想を生むに至った前提を説明する必要があって、読書感想文の書き出しは、それに充てることが多いと思う。つまりは本の要約を書くことになるのだが、文学作品の要約など、できるものではない。あらすじは書けるかもしれないが、なんらかの感想を持つに至った経緯はあらすじでは説明できないので、そこはどうしても中途半端になる。知られている作品であればそういう導入部を全部すっ飛ばすと言うのはありだったかもしれないが、それだと規定枚数を埋めるのは、さすがに大変になる。たぶん、それができれば、全国入賞するような作品になるのではないか。

科学読物の要約は、いうなればレポートだ。簡潔にまとめるテクニックは必要だが、文学作品の要約に比べたら、本質的に難しいことではない。どういう現象について、どいういう立場の人が、どのような手法で説明されたものかというところをおさえれば、あとは各論に入ってしまえる。読んでいて、驚いたことやぐっときたところを何か所かつまんで書いていけば、400字詰め原稿用紙5枚程度はすぐに埋まった。もちろん、コンクールで賞を取るには、自分の体験を絡めるとか、追加で調べてみたことを書くとか、なんらかの発展は必要だが、書きやすさという意味では文学より上だと思う。

担任は分厚いハードカバーを用意していた

いちばん思い出深いのは、6年生のときのことだ。宿題としては地球のマントルかなにか関する本の読書感想文を提出し、それまどと同じように職員室に呼び出された。そのとき先生は、いつものように提出済みの作文にアドバイスを書き込んだものではなく、1冊の分厚いハードカバーの本を、私に手渡した。それは、大陸移動説に関する本だった。残念ながら本の題名は覚えていない。先生は、宿題の作文も良かったが、一歩進めて、この本でもう一度書いてみないか、と仰った。

夏休みも終盤で、提出済みの感想文の宿題を読書のところからやり直し、しかもこんな分厚い本で、という無茶振りだったが、私はその本に興味を引かれた。学研「地球のひみつ」の熱烈な読者だった私は、もちろんアフリカ大陸西岸の凹みと、南アメリカ大陸東岸のでっばりが、大昔にはくっついていたのだということは知っていたし、それが解明されるというのもすごいことだと思っていた。

実際、その本は、大陸移動説が解明されていく過程を追っていくものだった。科学的な説明が多いとはいうものの、いうなれば科学者たちの人間ドラマだ。面白くないわけがない。数日のうちに一気に読んで、大変に興奮し、感想文も苦も無く書き上げることができた。たしかこの時は、県の文集に掲載されるくらいまでは行ったと思う。担任の無茶振りが、見事に嵌った。

いまでも、なんらかの科学的事実が解明されるまでの過程を書いた本は大好きだ。ブライアン・グリーン著「エレガントな宇宙」は、超ひも理論についての本だが、数式がひとつもない。日本語版は縦書きだ。すばらしくわかりやすい喩え話と図解だけで、前提となる量子力学相対性理論を説明し、そこから超ひも理論に至る過程を説明しきってしまう。練り上げた理論を証明する計算をコンピューターにかけて計算を待っているシーンの心情表現は、まるで映画のようで本当に興奮した。林一・林大 両氏による翻訳の素晴らしさもあって、いまだにこれ以上の良書に出会わない。あ、そうでもないか。「宇宙を織りなすもの 上・下巻」「隠れていた宇宙 上・下巻」は同じくらいにすばらしい。著者はいずれも、ブライアン・グリーン。

   

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読書のきっかけとしてのコンクールにはこれからも頑張ってほしいが…

先日、つけっぱなしになっていたテレビから「かんかんかんかんかんそうぶん♪」という音楽が流れてきて、なんじゃこりゃと思ってPCから目を上げたら、おんなの子がゆる~い感じのダンスを踊っていた。第66回を迎える「青少年読書感想文全国コンクール」が打ち出してきたCMらしい。応募者が少ないから盛り上げたいとかだろうか。しかしWebサイトには「児童生徒は必ず在籍校を通じて提出してください」と書いてあって、個人応募ができないのであれば、学校の活動ありきだと思うのだが…、先生向けのCMなのか…? #感想文ダンス踊ってみた というハッシュタグまでつけて紹介しているが、検索してみると今のところ数名しか反応していないようだ(寂しい…)。

この記事に書いてきたように、文学で感想文を書く意味はいまだに私にはわからないが、科学読物で感想文を書いてきたことは、大学でのレポート作成や、仕事についてからも必要になる調査報告を書くための訓練になっていたのではないかと思う。「何かに役に立つ」という認識がないと取り組む気にならないのであれば、そういう意味付けもいいのではないか。子供たちの読書量が減っているというのは心配なことなので、こじつけでもなんでも、意味付けがきっかけになるのならそれでいいと思う。

コンクールの課題図書を見ると、小学校低・中・高学年、中学、高校のそれぞれの部門に、文学作品の他に、グローバルな社会問題を含もうとしている意図は感じられた。でも、それも大切と思うが、各々に1冊は科学読物が含まれるようにしてくれてもいいのに、と昭和のリケジョは寂しく思った。
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