五十而知天命&バリ島往還

半世紀を生きてきた今、無理しない生き方をゆるーく追及中。バリ旅に学ぶところ多し。

衣・食・住を自作していた最後の世代・いま50代の私のおじいちゃんとおばあちゃん

今週のお題「おじいちゃん・おばあちゃん」

父の故郷はとある海のない県で、祖父と祖母はJRの最寄り駅から車で1時間ほどかかる田舎町に住んでいました。小学生の頃は、毎年、お盆には家族全員で、祖父母の家に1週間ほど滞在しました。前後に他の予定がなければ、仕事のある父と、父の世話をする母だけが家に帰り、子供だけ残ってもう1~2週間を田舎で夏休みを過ごすこともありました。いまから40年ほど前の話です。

その頃に体験したことをいま思い出すと、その町での祖父母の生活は、衣・食・住のかなりの部分を自分の手で賄っていたように思われます。

いま50代の私の祖父母ですから、生きていたらちょうど100歳くらい。戦時中は、小さい子供を抱えた若い父親と母親でした。

生活に必要なものが当たり前に供給されなかった時代を知っているこの世代が、流通に頼らず、自らの力で生きることができた、最後の世代なのではないかという気がしています。

祖母は、着物を常用していました。外出するときはもちろん、家で過ごすときも、畑へ行くときも、着物でした。たまに洋服で出かけることがあっても、家に帰ってくると、「普段着」である着物に着替えていました。

祖母は、自分の着物も、家族の着物も、自分で縫いました。夏休みの滞在期間中には隣町で花火大会があったので、私も浴衣を着て出かけましたが、もちろん祖母が縫ったものでした。

普段着だけでなく、もっと上等な仕立てもできたので、よく頼まれ仕事で着物を縫って現金収入を得ていました。縁側で着物を縫っている姿を思い出します。

2階建ての祖父母の家には、2階の更に上に屋根裏部屋のような空間があって、そこには蚕棚(カイコだな)がありました。私が小学校に上がる頃にはやめてしまっていて、もうカイコはいませんでしたが、おそらくもっと小さいころに、桑の葉を白いイモムシに食べさせた、おぼろげな記憶があります。その匂いにもなんとなく覚えがあって、使わなかった繭玉がそのへんに転がっていたことも思い出します。屋根裏には、糸を取るための道具も置いてありました。

はたおり機があった覚えはないし、祖母が常用していたのは木綿の着物なので、繭玉あるいは絹糸はどこかに売っていたのかもしれませんが、自宅で繊維を生産していたというのは、考えてみればすごいことでした。

普段着の着物

農家ではありませんでしたが、祖父母は畑を持っていて、家で食べる野菜は何でも自分で作っていました。朝、畑に行って、スイカ、キュウリ、トマトなどを取ってきて、庭にある井戸水の水栓を細く開けて流しながら冷やします。毎日、飽きるほどスイカが食べられるのも夢のようでしたが、私は祖母の畑で採れるトウモロコシに夢中でした。畑から取ってきたばかりのトウモロコシを、庭に出した七輪で焼いてもらっては、お昼ご飯に食べていました。

祖父母は野菜だけではなく、大豆や麦も作っていました。そしてその大豆や麦で、祖母が味噌を作っていました。田舎味噌で、とても塩辛く、独特の風味なので、味噌汁にするとそれほど美味しいと思いませんでしたが、それで作った、砂糖とみりんで甘くしたナスの味噌炒めは、本当に美味しいものでした。もちろんナスは畑で採れたものでした。井戸水で冷やしたキュウリは、その味噌をつけてかじりました。

麦は、石うすで挽いて小麦粉にして、水と油で練っていろいろな餡を包み、蒸し饅頭にして食べました。畑で採れた小豆から作った餡子、カボチャ餡、冬に漬けておいた野沢菜を塩抜きして油でいためたもの、ナスと味噌などいろいろな種類があって、おやつにも食事にもなりました。皮の生地にはふくらし粉を入れないので、冷えると固くなります。蒸かしたてを食べなかったものは戸棚に入れておき、次に食べるときは炙って焼き目をつけて食べました(これがほんとのおやき)。油、砂糖、塩以外はすべて祖母の畑から採れたものでした。

祖母の家には製麺機もありました。自分で挽いたそば粉と小麦粉を練って、平たく伸ばして製麺機にかけ、ハンドルをぐるぐる回すと、細いそばに切られて出てきました。お盆は親せきが大勢あつまるので、切ったばかりのそばをどんどん大鍋で茹で、竹で編んだ湯切りで上げて器に入れ、細切りにした野菜をたくさん入れて煮ておいたつゆをかけてもらい、できた順に食べました。

裏庭ではニワトリを飼っていて、卵を産ませていました。私は見る機会がありませんでしたが、私の両親の結婚が決まって母が初めて祖父母に挨拶しに来た時は、ご馳走をつくるために、祖母がニワトリを一羽、つぶしてくれたのだそうです。

山盛りの茹でたトウモロコシ

木造2階建て(+蚕棚部屋)の祖父母の家は、さすがに自分で建てたものではありませんでしたが、「親戚の大工」が建てたものだという話でした。

祖父は自動車整備士の資格を持った技術者で、戦後、捕虜になっていた施設でボイラー係をやっていたこともあって、家の設備については、業者に頼まず、いろいろと自作していたようでした。

例えば、新築当時には洗濯機というものはまだなかったので、その後、まず洗濯機置き場をお風呂場の脇に増設し、そこに電気と水を引いて洗濯機が使えるようにする、というようなことを自分でやっていました。いまほどDIYの情報も便利なパーツもなかった時代、手に入る限りの材料と、自らの技術と工夫でリフォームを繰り返してきた痕跡が、あちこちに見え隠れする家でした。

40年前でも建ってからそれなりの年数が経っていたので、あちこちに修繕が必要なところが出てきていて、祖母が「じいちゃん、○○が動かねわ!」と訴えると、仕事着のつなぎのまま、道具箱を片手に裏庭かどこかに向かう祖父の姿をよく見たものです。ちっとも嫌そうでなかったのは、祖父が技術者として家の設備のメンテナンスに誇りを感じていたからなのかもしれません。

古い木造建築の一部

おわりに

私がよく祖父母の家に滞在していたのは小学生の時で、その頃の祖父母は60歳前後でした。その後、子供のときのように長期間滞在することはなくなりましたが、たまに訪れた時の様子からは、小学生の私が見聞きした暮らしから、その後もそれほど変わらない日常を送っていたのではないかと思われます。

祖父母はそれぞれ90歳過ぎまで生きて、大病を患うこともなく大往生を遂げました。いわゆる「ピンピンコロリ」であり、これは特に「食」についての暮らし方、自分で体を動かして作った、季節のものを中心に食べる生活の効能ではないかと思ったものです。

カイコを飼って糸を作り、大豆を育てて味噌を作り、自分の手で住居を修繕する。おじいちゃん、おばあちゃんのおかげで、そうした衣・食・住を自作する生き方を目の当たりにできたことを、本当に感謝しています。